自分のセオリーをもつということ。

ノーベル経済学賞を受賞したロバート・マートン(1944〜)は、今風に言えば「金融工学」を創始した人である。(中略)彼の金融理論の講義の中で1つ記憶に鮮明に残っている言葉がある。それは、
「世の中には賢い人と運の良い人がいる。賢い人は手法を誇るが、運の良い人は結果を誇る」

(引用;梶井厚志『戦略的思考の技術 ゲーム理論を実践する』)

自分なりの手法を見つけるという作業は一朝一夕でできるものではないし、かといって悶々と悩みに悩んでパッと痛快なものができるのかと言えばそうでもなかったりする。

しかも、今の日本の風潮って、どちらかと言うと「勝ち組と負け組」のようにわかりやすい結果(とそれにまつわる情報)を流し、世間はその情報に踊らされているような気がする。一方で自分なりの手法を模索する過程は敬遠され、省略されているような気がする。

話題のボクシング3兄弟の話で考えると、これまでの試合を独占的に中継したマスコミの問題は、昭和のスポ根漫画に負けずとも劣らないストイックなトレーニングよりも強烈なキャラクターに世間の注目を集めるよう仕向けたこと、結局のところそれに尽きるんじゃないかと考えている。
(ただし、彼らのパーソナリティなど、メンタル面の問題は全く別の話になるということを理解しなくちゃいけないしここでそれを書くのは趣旨がずれるので割愛させていただく)

今日情報が持つ力というのは巨大で、それが故に人々は情報を求めたがっているんだろうけれども、情報というものはあくまでも数多くあるツールの1つであって、それをどう使いこなすかはその情報と相対する個人の能力に関わってくるんだよと。
オシム語録の「考えて走る」じゃないけど、例えばAというシチュエーションであなたはどう動きますか、BではどうですかじゃあCでは、という頭の整理ができる人間になりたい。

冒頭のコラムの最後は、次のような言葉で締め括られている。
「やるからには、私なりの方法論を持ちたかった。勝つか負けるか、結果はわからない。ただ、セオリイを作ればそれに賭けられる。負けたところであきらめもつく」(中略)なぜセオリイ(理論)を研究するのかと尋ねられると、私もこのように答えることにしている。